皮肉にも、あの3・11の後メジャーになった岩手県の大船渡と陸前高田のほぼ中央にある片田舎を父と訪れたのは、今から約60年前の昭和29年2月であった。
大船渡線で単線の蒸気機関車を降りて細浦という駅に着き、雪間の線路を渡ってから無人の改札をくぐりぬけると、潮の香りと東北なまりが、私を温かく迎えてくれました。
夜になると満天の星空の下で、木造平屋に親族が暖炉を囲み、酒を呑みながら、昔話に花が咲いていました。
今思うと、幼少の私にはあまり理解できなかった話を聞いていて人の輪の中で感じた、その嘘をつけない朴訥さと、ある意味武骨で不器用な所が、私自身のルーツであった事を思い知らさせられる。
そんな片田舎の国道沿いの海岸脇に、もう一つ、私の郷愁と思い出が詰まった何の変哲もないコンクリート造2階建ての築40年以上経過した小さな建物が、あの大津波に立ち向かい、幸いにも耐え抜いたのである。
そしてそれ以来私は、人も物も全て流してしまった廻りの惨状を見て、その疲れ切って眠っていた建物の中に暖かい息吹を吹きかけて,以前と変わらない貧しくも清らかな人の心を取り戻してあげたいと願う様になりました。
北都建設でできることイメージ そして来年の大震災からの3年後には、生まれ変わった建物が、東北の海と風と大空に見守られ、便利と繁栄とは程遠い細浦の町の中に根付いていく事を信じて疑わない。
平成25年11月5日
代表取締役 紀室 研一